学問と就職、大学の存在意義とか
久しぶりに、思うところがあったので何か書いてみようと思います。
今読んでる本がこれです。
若者と労働 「入社」の仕組みから解きほぐす (中公新書ラクレ)
- 作者: 濱口桂一郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2013/08/10
- メディア: 新書
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この本の第3章「『入社』のための教育システム」が個人的にとても興味深い。
興味の持った部分を適当にまとめていく。
新卒者がある職業に必要な能力を得るためには当人が在籍していた学校で適切な教育をうけ、それを取得していくというシステムが自然。これを職業教育という。日本にも職業高校というシステム自体は存在するがそこに進学する人は少ない。教育が仕事に役立つようになっていることを「教育の職業的意義」という。日本において、コレは著しく低い。
歴史的に見ると、日本も以前は職業教育の重要性を唱えてきた。しかし企業が求めたものは「具体的な仕事ができる能力を持つ人材」ではなく「どんな職務にも対応できる一般的な遂行能力を持った人材」だった。その為企業は偏差値という物差しで学生を見る様になり、本来あるべきはずの就職学校が形骸化していった。
一方で学校教育は職業訓練に耐えうる「自頭のいい人間」を排出すれば良くなってしまった。そのため普通教育、大学教育もそれ自体としては意味がなくなった。その結果職業学校に対する嫌悪感が募り普通高校が増えると偏差値が低い人が通う普通科底辺校はその程度の人間しか輩出できなるなる。そこを出た人間が荒れたり、ニートとして労働市場から排除されるのはある意味で自然だ
ここまで読んで思ったことを大雑把にまとめると「大学教育の意義」と「学問と教育の違い」って何?ということ。
この本ではジョブ型社会*1には職業教育を行うシステムが自然と必要みたいに書いてるけどそうなったとしたら大学等のいわゆる高等教育機関の存在意義は何なのだろうと思った。大学教育までもが就職に必要な能力を養成するものになってしまったら純粋な学問を学ぶ場所はどこへ行くのだろう。社会を前進させるためには一歩進んだ知識が必要になる。それはどこで教えられるのだろう、と考えた。
もし仮に「一歩進んだ知識」が学者や政治家といった職業に必要なものだとしたらそれを教える大学は職業学校?だとしたら学問って何?とネズミ算式のように疑問が湧いては消えていく。そうなら学問って何?
同じ大学の友人も言っていた。「学んだことを就職先で活かせないようであればそれはただその分野に詳しい人だ」と。大学で学ぶことは就職後かんたんに役に立つような知識なのか?そのほうが社会にとって望ましいのか。
自分のこの考えこそ、職業学校を卑下している最たる例なのかもしれない。
疑問は深まるばかり。
2016/11/25 追記
なんと、『若者と労働』の著者である濱口桂一郎先生にコメントをいただきました(びっくりした)
コメントありがとうございます。
濱口先生から貰ったコメントを引用します
そういう学問を学んでいる人々や教えている人々の社会的有り様を客観的に分析するという職業社会学的視点からすれば、学問自体の性質論は別として、いかなる学問も全てその学問を修了した人がそれに関わる職業に就いていくための職業教育と位置づけられます。哲学を勉強している学生は、彼/彼女が主観的にどう認識しているか否かにかかわらず、主として大学文学部で提供される哲学教師という希少な雇用機会を獲得するために必要な職業教育を受講しているのです。
大学で学べる学問も大学教授のような職業になるための職業教育になりうる、ということですね。ここで重要なのは「学問自体の性質論は別として」というところでしょうか。
濱口先生のコメントでも指摘されましたが僕の中の学問は「純粋学問」というイメージが強いみたいですね。職業のための学問、言い換えると職業教育としての学問も存在するという認識も重要になるのですね…
最後に濱口先生の記事で個人的に印象的なコメントを引用して終わりたいと思います。
大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。
これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです。上で引いた広田先生の文章に見られる、自分の教え子(東大を出て下流大学に就職した研究者)に対する過剰なまでの同情と、その彼らに教えられている研究者なんぞになりえようはずのない学生に対する見事なまでの同情の欠如は、この辺の感覚を非常に良く浮かび上がらせているように思います。 ・・・いずれにせよ、このスタイルのメリットは、上で見たような可哀想な下流大学の哲学科の学生のような、ただ研究者になる人間に搾取されるためにのみ存在する被搾取階級を前提としなくてもいいという点です。東大教育学部の学生は、教育学者になるために勉強する。そして地方大学や中堅以下の私大に就職する。そこで彼らに教えられる学生は、大学以外の学校の先生になる。どちらも職業レリバンスがいっぱい。実に美しい。
おわり